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スリーマイル島原発事故 |
ここではこれまでに発生した3つの大規模な原子力発電所事故、スリーマイル島原発事故・チェルノブイリ原発事故・福島第一原発事故の概要を書いていきます。もちろん全ての情報が公開されているわけではないため、推測や憶測なども含んでいます。あらかじめご了承ください。
スリーマイル島原発事故
スリーマイル島原発事故は1979年3月28日にアメリカのペンシルベニア州で発生しました。
事故を起こした原子力発電所のあるスリーマイル島は、島という名前が付いていますが海に浮かぶ島ではなく、サスケハナ川という川の中に位置する中洲であり、周囲を河川水によって取り囲まれていました。スリーマイル島原発は2基の加圧水型原子炉を有していて、事故当時1号炉は燃料交換のため停止中で、2号炉は営業運転開始から3か月程度が経過していたという状態でした。加圧水炉の運転には大量の冷却水が必要であることから、スリーマイル島原発ではそれを川から水を汲み取って使っています。アメリカ内陸の河川水は硬水で各種イオンが大量に含まれていることから、各種イオンを取り除くためのフィルターが必要不可欠であり、使い続けるとすぐに目詰まり起こしてしまうという問題がありました。このことは建設前からわかっていたため、冷却水の取り入れ口をあらかじめ2つ用意しておき、交互に運転を止めてフィルターを洗浄または交換を行うという手法が採られていたのです。
事故が起きる11時間ほど前、その時も片方の取り入れ口を止めてフィルターの交換作業を行っていたのですが、普段であれば普通の圧縮空気を使用してフィルターを取り出すところを、作業の難航から圧縮空気に蒸気を加えて取り出してしまいました。そしてこの時に含まれていた蒸気のごく一部が、本来であれば水が存在しないはずの区域まで入ってしまい、これを排出するための弁が短時間開きました。やがて水がなくなったのを確認し、用途の済んだ弁を再び閉じようとしました。しかし、この時に全てのキッカケとなる大問題が発生したのです。水を排除するための弁は普段開閉しない使用頻度の低さが関係して、気づかぬうちにサビが付きかけており、開くときには力が加わってサビを削りながら開いたものの、閉じるときにはサビに引っかかって途中で止まって開きっ放しにぱなしになってしまったのです。原子炉運転室のモニターには弁が閉じているように表示されていましたけれども、これは実際に弁が閉まっていることを表すのではなく、弁を閉じるようにと信号を送ったに過ぎませんでした。この誤認がこのあとの事故に繋がっていきます。
これは原子力発電だけでなく火力発電所の熱機関でも共通して言えることですが、タービンを回した水蒸気は循環のために冷やしてから炉の方に戻る仕組みになっています。スリーマイル島原発で使用されていた加圧水炉でも同様に二次冷却水の水蒸気はタービンを回した後に復水器の冷却水によって液体の水に戻されてから炉の方に戻るようになっています。冷却水が十分かどうかは系統全体の入り口と出口の圧力差を見ればわかるのですが、先ほど問題となった弁が空きっ放しになっていた関係で入り口側の圧力が1気圧と見なされ、冷却水が流れていないと誤認されてしまいまました。そのため安全装置が働いて原子炉の二次冷却材である水蒸気を回すポンプが止まってしまい、原子炉本体が冷却できない状態になりました。最終的に加圧器の圧力逃し弁までもが開いて炉心内の一次冷却水が蒸発し、水面が下がって燃料の上端が露出しことにより燃料そのものが溶けてしまう事態に発展してしまったのです。
もちろん原子炉運転室にはどのような事態になればどのような対応をすべきかを出来るだけ詳しく羅列した運転マニュアルが用意されています。しかし運転室モニターに間違った状態が表示されることは想定されていません。運転員はさまざま処置を行いましたが、冷却水ポンプを動かすことはできませんでした。
やがて異常事態の連絡を受けて、経験豊富な運転員が集まってきました。彼らはモニターの表示が全て正しいなら原子炉が今の状態になることは決してないと気づきました。そしてモニター表示のどこが間違っていたら今の状態になるかを検討し、問題の弁が表示と違って開いているのではと判断しました。全ての自動弁には横に手動弁があります。手動弁を閉じると事態は改善され、しばらくして正常状態に戻りました。
この事故で分かったことは、原子炉冷却系が止まって2時間すれば冷却水の水面は燃料棒の上端より下がりメルトダウンが起こること、4時間すれば燃料棒の下端より下がってメルトダウンが本格化することです。ウランの融点は摂氏1,132度であるため、炉心温度がそれ以上になれば燃料棒が融解し、ウランが原子炉の底を溶かして炉外に落ちます。もしそのまま反応が継続すれば発熱するウランは岩石をどんどん溶かして地下に落ちて行き、ついには地球の反対側に達すると例えられるチャイナシンドロームが始まってしまいます。
スリーマイル島原発事故では炉心のウラン燃料棒の溶融が起きていた時間は数十分と言われています。少量の放射性物質が環境中に放出されたものの、幸いにも人体への放射線障害は確認されませんでした。しかしそれでも事故後の処理に20年以上の時間を要しました。
チェルノブイリ原発事故
チェルノブイリ原発事故は人類史上最悪の原発事故です。最近ではチェルノブイリのことをウクライナ語発音の「チョルノービリ」と呼称することもありますが、本ホームページでは馴染み深い「チェルノブイリ」の呼び名で統一させていただきます。
チェルノブイリ原発事故の公式の死者数は事故直後に現場に駆けつけた消防隊員36名だけとされているものの、実際は旧ソ連全土から除染作業に駆けつけた兵士や労働者60万人が20年以内に白血病などの血液のがんで死亡したと言われています。水溶性の高いアルカリ土類金属のストロンチウム90を体内に取り込み、同じアルカリ土類金属のカルシウムを主成分とする骨に蓄積させて、内部の骨髄を被曝させたことが原因のようです。
チェルノブイリ原発事故は原子炉の構造的な原因によるものではなく、100%ヒューマンエラーによるものです。それも運転員がおよそ考えられないほど間違った操作をしたからです。チェルノブイリ原発は分類的に黒鉛炉に属していることから、事故の詳細が分かっていなかった直後に黒鉛炉は軽水炉に比べて危険だとの考えが広まりましたが、今ではこれが誤りであると認識されています。黒鉛炉は現在もアメリカをはじめとする原爆保有国で使用されており、運転において特段の不具合は発生していません。
全ての原子炉は核分裂の連鎖反応を停止させたとしても、核分裂生成核種の崩壊反応によって発熱が続きます。原子炉の冷却は原子炉の運転が停止したあとも常に行わねばなりません。異常時のためにどの原発でも非常用発電機が用意されており、発電機は自動車のようにバッテリーの直流電力でセルモーターを回して起動します。ところがチェルノブイリ原発ではこのバッテリーの性能に不安があったため、他の方法でも非常用発電機が起動できないか検証するための実験を行うことになりました。異常事態で発電を中止した直後のタービンはまだ空回りをしている状態なので、この時のタービンの回転運動エネルギーを使って非常用発電機を押し掛け起動できないか、ということを試してみたのです。
実験は1986年4月26日の深夜に行うことになりました。近傍の大都市キエフの電力使用量が少なくなる深夜に原発を止めて代わりの火力発電に切り替えるためです。この実験は非常に簡単なものに思えました。通常の運転停止の手順に加えて非常用発電機が動くことを確認するだけです。もし危険だと幹部が判断していたならば、原発の停止を昼間に行ったはずです。少しでも不安があれば、深夜の担当者を経験豊富な運転員にしたでしょう。若い運転員は深夜勤務手当のつく夜中の担当を希望し、年配の運転員は家族と過ごせる時間が欲しいので昼間勤務を希望します。当日の実験は危険性がほとんどないと判断されたので、予定通り若い運転員2名が深夜の担当を勤めていました。
原子炉を止める手順はマニュアルに分かりやすく書かれています。定常運転の状態から規定の本数だけ制御棒を挿入し、熱出力が下がったことを記録します。そして再び規定本数の制御棒を挿入し、熱出力を記録します。こうして少しずつ制御棒を挿入して熱出力をゆっくりと下げて行きます。熱出力が通常運転の10%になった時に実験を行う予定でした。ところが若い運転員はマニュアルの操作を無視して最初に全ての制御棒を挿入してしました。熱出力は一気に通常運転の0.1%まで下がってしまいました。あわてた運転員は、今度は制御棒を全て引き抜いてしまいました。熱出力が下がった時に回復させる正しい手順は定常運転と同じで規定本数の制御棒を挿入した状態で待つことです。原子炉のどこかでγ線誘導核分裂が起きて中性子が発生します。規定本数の制御棒が挿入されていれば、核燃料の連鎖反応が始まり熱出力は安定します。ところが制御棒を全て引き抜いてしまったら、γ線誘導核分裂が起きたあとの連鎖反応を制御することが出来ず、原子炉は原爆に等しい状態になります。若い運転員は熱出力が急上昇するのを見て全ての制御棒を挿入するボタンを押しましたが、間に合いませんでした。原子炉が暴走し、水蒸気爆発を起こして破壊された炉心内部から大量の放射性物質が大気中に放出された重大事故として歴史に名を刻むこととなったのです。
福島第一原発事故
福島第一原発事故は2011年3月11日に発生した東日本大震災とそれに伴う津波を起因とした国内最悪の原子力事故であり、20代以上の方であればリアルタイムで報じられた原子建屋の爆発映像を目にした記憶があるでしょうし、10代以下であっても現在もなお続く廃炉作業や汚染水の処理に関するニュースを通じてご存じの方も多いかと思われます。
福島第一原子力発電所は福島県の太平洋岸のほぼ中央に位置しており、合計で6基の沸騰水型軽水炉を有していました。東日本大震災発生当時、その6基のうち1~3号炉は運転中で、4~6号炉は定期点検中でした。地震によって運転していた1~3号炉はすぐさま自動停止し、全ての外部電力を失ってしまいましたが、非常用ディーゼル発電機によって原子炉の冷却装置は問題なく動いていました。
しかし地震発生からおよそ50分後、波高13.1mの津波が発電所に襲い掛かり、浸水によって非常用ディーゼル発電機が故障してしまいました。津波による被害は多くの電気設備やポンプ、燃料タンク、非常用バッテリーなど損傷や流出に及んでしまったため、福島第一原発は「全電源喪失」という深刻な事態に陥ってしまいました。
非常用の電源を全て失った福島第一原発は原子炉内部や使用済み核燃料プールに冷却水を送り込むことが出来ず、核燃料の冷却が出来なくなってしまいました。原子炉の核燃料は運転が止まった後も核分裂生成核種の崩壊反応によって発熱し、冷却水の循環が止まれば原子炉内の水が蒸発して空焚き状態になってしまいます。燃料棒の表面を覆うジルコニウムという物質は中性子をほとんど吸収しない性質を持つことから原子炉内部で多用されているのですが、700度以上で水と反応して酸化ジルコニウムと水素が生じてしまいます。福島第一原発事故ではまず1号炉で原子炉から漏れ出た水素が建屋最上階に溜まり、地震翌日に爆発を引き起こしました。続いて3号炉と、3号炉と排気用煙突を共有していた4号炉でも水素爆発が起きました。1号炉の爆発で吹き飛んだ何らかの物体が2号炉建屋の窓を割っていたためか、幸いにも2号炉は水素爆発を起こしませんでした。
原子炉建屋の爆発により、要素換算でチェルノブイリ原発事故の約6分の1に相当する放射性物資が放出され、福島県内の1,800km3の地域が年間5mSv以上の空間線量を発する可能性のある地域となってしまいました。残事故を受けて日本政府は福島第一原発から半径20km圏を「警戒区域」、20km以遠の放射線量の高い地域を「計画的避難区域」と指定し、10万人以上の住民を避難させました。その後の2012年以降警戒区域および計画的避難区域は「避難指示解除準備区域」「居住制限区域」「帰宅困難区域」の3つに再編され、2020年に避難指示解除準備区域と居住制限区域はすべて解除されたものの、帰宅困難区域は一部の例外を除き、避難指示が現在もなお継続しています。
本事故に関しては2025年現在、当時の経営者の責任を問う株主代表訴訟が進行中であり、おそらく最高裁にまで進むと見込まれています。裁判所の判断に拘らず、弊社の見解では「原発建設当時の経営陣や歴代の発電所幹部にも責任があるが、最大の責任は事故当時の経営陣にある」と判断しています。
建設当時から問題のあった福島第一原発
建設時の経営者の責任というのは、第一に「津波の高さを甘く見積もって原発をわざわざ標高の低い位置に建設してしまったこと」です。福島第一原発の設置申請が行われた1966年当時、建設予定地に過去100年間で到達した最も高い津波は1960年5月23日の昭和チリ地震で、波高がおよそ4mでした。そこで当時の経営者は標高10mもあれば安全だろうと考え、地質状況や復水器冷却水の組み上げに必要な動力費、土工費等を勘案した結果、標高約35mの丘陵をわざわざ削って標高10mの敷地を造成しました。ほぼ同時期に作られた東北電力女川原発は標高14mに建てられましたが、南に突き出した牡鹿半島の中で東向きに突き出た小半島の北岸にあり、太平洋からの津波が直撃しない位置に建設されました。中部電力浜岡原発も敷地は標高14mですが、原発敷地の海側に標高20mの自然砂丘があります。東京電力の経営者もその後に危険を感じたのか、福島第一原発5・6号炉は標高12m、福島第二原発は標高15mに建設されました。しかし福島第一原発1〜4号炉に関しては対策が行われず、防潮堤すら築かれませんでした。福島第一原発は建設直後から地震津波に最も脆弱な原発と言われてきました。津波が直撃するであろう太平洋の東向きの標高10mに原発を作ったのです。
原発が地震などで運転を停止して発電できなくなっても、原子炉は冷やし続けなければなりません。原子炉を冷やすために必要な電源を確保するには外部電力と非常用ディーゼル発電機の2種類があります。ところが福島第一原発では事故当時、東日本大震災の地震と津波によりこのどちらもが喪失する事態となってしまいました。
1つ目の外部電源とは別の発電所から調達してくる方法なのですが、東日本大震災では送電鉄塔の倒壊や断線などのトラブルが発生し、復旧に1週間も掛かってしまったため使用することが出来ませんでした。
2番目の非常用ディーゼル発電機はその名が示す通り発電機に直結したディーゼルエンジンを回すことによって電力を生み出す方法であり、原子炉建設時にあらかじめ1基につき2台が用意されることになっていました。しかしその設置位置に問題がありました。アメリカでは最も危険な自然災害は竜巻です。秒速100mを超えることもあり、住宅全体が空中に吸い上げられバラバラに破壊されたり、立木が吸い上げられミサイルのように飛んできて建物に突き刺さることがあります。このため竜巻多発地帯では非常用発電機のような緊急時の重要施設は地下に設置することが義務つけられています。福島第一原発建設時はアメリカの原発会社ウェスティング・ハウス社に言われたままに、非常用発電機を全て原子炉建屋の地下に設置しまったのです。その後全て地下では不安を感じたのか、原子炉2基ごとに非常用発電機を1基増設することになりました。福島第一原発の1〜4号炉には合わせて10台、少し離れた場所にある5・6号炉には5台の非常用発電機が作られました。ところで発電機は高電圧配電盤とセットでないと使えません。発電機は常に一定電圧の交流しか作れません。原子炉周辺の機器は機器ごとに様々な電圧の交流または直流電源が必要です。高電圧配電盤は多くの電圧の交流を作り、一部は直流に変換して、原子炉周辺機器に必要な全ての電源を用意します。発電機と配電盤を結ぶ電線は大量の電流が流れるので純粋な銅でできた棒状で、内部に冷却水が流れる穴が空いています。
震災当時1〜4号炉の10台の非常用発電機+高電圧配電盤は全て一方または両方とも地下に設置されており、津波によって全て使えなくなりました。発電機や配電盤の中には津波の被害を免れたものもありましたが、それらは接続されていなかったのです。一方5・6号炉の5台の発電機+配電盤のうち1組だけは無事で、5・6号炉は被害を免れました。
設置してから1度しか動かさなかった非常用冷却機
外部電源と非常用発電機がなくなれば、残された唯一の原子炉冷却方法は炉心の高圧だけで作動して冷却水を半永久的に炉心に注入する非常用冷却機だけです。1号炉の非常用冷却機は他の原子炉とは少し仕様が異なり、炉心内部の高温高圧の水蒸気は外部の冷却水貯蔵タンクの中を通って水に戻り、炉心に注入されます。この装置は炉心の圧力だけで無電源でも動き、冷却水タンクの水がなくなったら消防車で海水を補充しても構わなかったため、炉心の圧力が下がるまで動き続けるはずでした。
弊社が考える歴代の発電所幹部の責任とは「1号炉非常用冷却機という事故時に最も重要な安全装置を建設直後の試運転の時しか動かしていなかったこと」です。
これは1号炉が完成し、テスト運転をしたときの出来事でした。炉心の水蒸気が入ってきた冷却水タンクでは水が沸騰し、タンクの穴から猛烈な勢いで噴出した水蒸気によって非常に大きな轟音が鳴り響きました。その轟音は相当大きかったらしく、最初のテスト運転以降、近隣の住民の迷惑にならないように、定期点検や非常訓練でも1号炉の非常用冷却機は動かさないことが決めました。つまり普段の定期点検や非常訓練で実際に動くとどうなるかの確認を怠っていたのです。それから44年が経過し、非常用冷却機が動いているところを知る職員はすでに全員退職していました。そのため震災当日において「非常用冷却器が動くと非常に大きな轟音が出る」ことを知る者は誰もいませんでした。
震災当日1号炉運転員が非常用冷却機が動いているかどうかを確認するように対策本部に依頼したところ、対策本部から派遣された職員は見た通り水蒸気出口からもやもやとした水蒸気が出ていると報告しました。これによって対策本部も1号炉運転員も非常用冷却機が想定通り動いていると思ってしまったのです。実際は地震から津波までは動いていて水蒸気も盛大に発生させ轟音を響かせていたのでしょうが、津波によって電源が失われた時に非常用冷却機も止まったと推測されます。もし定期点検や非常訓練で1号炉冷却装置を実際に動かして動作確認をしていたとしたら、轟音が響かなくなることで電源がなくなると止まることが分かったはずです。津波直後であれば、非常用冷却装置の手動弁は簡単に開けられて非常用冷却装置の運転が再開できたはずです。
無電源で動き続けるはずの冷却装置が停電で止まった理由は、安全装置と称して電源の必要な装置を誰かが後付けで設置していたからです。
放射性物質を扱う施設は必ず放射線管理区域の中で扱います。放射性物質が噴き出しても放射線管理区域の中に留まっている限り事故と評されることはありません。放射性物質が境界線を超えて管理区域の外側に出てしまうと事故扱いになります。1号炉の非常用冷却機は炉心の蒸気という放射性物質を含んでいる可能性の高い物質を、冷却水タンクという管理区域外の施設の中へ通し、冷えた水を管理区域内に戻します。もしパイプに穴が空いていたら放射性物質を管理区域外に漏らすことになります。そこでパイプの入り口と出口に圧力計をつけました。パイプに穴が空いたら蒸気が漏れるので圧力差が小さくなるため、すぐさま冷却機を止めれば放射性物質の流出を防ぐことが出来ます。この装置の発案者・製作者・設置を認めた管理者はこれで1号炉がより安全になったと満足していたことでしょう。停電になると圧力計も止まり、圧力が測定できなくなったら弁を閉める仕様でとなっていました。つまり無電源でも動くはずの非常用冷却機が、電源を喪失すると止まってしまう仕組みになっていたのです。この問題も非常訓練の中で1号炉冷却機を動かしていればすぐにわかったはずです。
いつか来ると分かっていたのに行われなかった津波対策
福島第一原発が津波に最も脆弱なことが次々に明らかになって、監督官庁からも津波対策を要求されました。現在の経営陣はできる限りの理由をこじつけて対策実施を後回しにしました。東京電力内部では防潮堤設置など具体的な対策計画が出来上がっていましたが、社長の経営判断で実行されませんでした。
多くの発掘調査で、東北地方の太平洋岸では波高20mを超える津波が繰り返し到達していることが分かってきました。宮城県多賀城市の宝国寺裏山は末の松山と呼ばれ、標高20m程度の平野にある比高5mの丘となっています。貞観11年(869年)旧暦5月26日に発生した貞観地震による津波は末の松山を越えたことが京に伝わり、905年成立の古今和歌集にも末の松山を波が越えることを歌った短歌が掲載されています。発掘調査により、この貞観地震をはじめとする波高20m以上の津波が過去4,000年に5回到達していたことが発覚しました。
末の松山を歌った短歌 |
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「浦近く 降りくる雪は 白波の 末の松山 越すかとぞ見る」 藤原興風 「君をおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波も越えなむ」 陸奥歌 ―――古今和歌集より |
日本原子力発電(電力9社が共同出資している原子力発電専業会社)の経営陣は東京電力の経営陣とは全く異なった対応を取りました。日本原子力発電が管理していた東海第二原発(東海原発は既に廃炉解体中)は津波浸水予想区域内に位置していることが分かり、非常用発電機は2基とも原子炉建屋地下に設置されていたため津波で浸水する可能性が高いことが発覚しました。そこで追加の3番目の非常用発電機を敷地内部で最も高い事務棟屋上に建設することを決め、東日本大震災の一週間前に完成しました。もしこの発電機が無かった場合、東海第二原発も福島第一原発と同じ道を辿ったかもしれません。
本来であれば福島第一原発は東海第二原発よりはるかに安価かつ短時間で安全装置が増設できていました。事故翌日3月12日に福島第一原発におられた方々が必死の思いで早朝から作業されていたこと、すなわち生き残った非常用発電機と生き残った高電圧配電盤を銅線(銅棒)で繋ぐ仕組みを、震災が起きる前にあらかじめ構築しておけば良かったのです。しかし現実でそのような仕組みが構築されることはなく、作業員による手作業で生き残った非常用発電機と高電圧配電盤の接続が行われました。12日の作業は後1時間で完了する段階まで至っており、この作業さえ完了すれば本来の原子炉冷却装置が動かせると思われました。しかしその矢先、1号炉が水素爆発を起こし、放射性物質が作業エリアに散乱し誰も近づけなくなりました。非常用発電機と配電盤のセットが10組もあるうちの数セットを高台に移動して繋いでおくというのは津波対策として非常に有効であるため、現在では全ての原発で行われています。ところが東日本大震災が起きる以前の東京電力の経営陣は、津波を前提にした対策を行うことに関して非常に消極的でした。
福島第一原発事故では偶然の幸運が多くありました。外部電力が停電しても8時間もあれば復旧するとの甘い見積もりを下に、無電源で動く非常用冷却装置は8時間だけ動くように設計されていました。1号炉は停電の時に止まってしまいましたが、2号炉は3日半、3号炉は2日半動き続けて、事故収束のための貴重な時間を稼ぎました。4号炉は定期点検中で燃料棒は全て5階のプールに入っていました。本来の冷却装置が止まってしまった場合、燃料棒の発熱によりプールの水が沸騰して無くなり、燃料棒はメルトダウンしていると考えられたことから、警察の放水車まで持ってきてプールに水を入れようとしました。実際は5階には水だけ入っている別のプールがあり、水素爆発で2つのプールの仕切りが壊れていて、燃料棒プールの水が沸騰して減ると隣のプールから水が流れ込んでいました。5号炉は定期点検が終了して全ての燃料棒を炉内の所定の場所に挿入し蓋を閉めて気密試験中でした。実は津波直後5号炉が最も危険な状態でした。5号炉と6号炉で5セットあった非常用発電機と配電盤のセットもうち幸いにも6号炉用の1セットが海水に濡れずに無事でした。この配電盤と5号炉冷却装置を繋いで事故を防ぎました。福島第二原発では非常用発電機は全て津波で濡れて使用不能でした。偶然にも東北電力からの送電線の1系統だけが送電線鉄塔が全て無事で、外部電力が得られました。以上のような幸運が重ならなかったら、東日本の広い範囲が立ち入り禁止となるほど放射性物質が大量に放出されていたでしょう。
津波が直撃しない位置に女川原発を作った東北電力や、津波浸水予想区域にあると分かった時に津波が届かない高所に非常用発電機を設置した日本原子力発電の経営陣と比べて、津波に対して脆弱だといくら指摘されても簡単な津波対策さえ拒否し続けた事故当時の東京電力経営陣の無能さは糾弾されるべきものでしょう。
参考文献:
国会事故調「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会『報告書』」
政府事故調「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会『最終報告書』」
民間事故調「福島原発事故独立検証委員会『調査・検証報告書』」
東電事故調「福島原子力事故調査報告書」